朝遅く起きて、ホテルのレストランでで朝食、American breakfast:
ジュース、紅茶、コーンフレイク、チーズオムレツ(ベーコン,ジャガイモ)
トースト(薄く、カリカリにしたもの)
2人分で509RS(=240RS*2+サービスチャージ)
ちょっと遅い時間だったので、食事が出てくるまでしばらくかかりました。
その間、窓からホテルの周りの様子観察。レストランの前が寺院(ヒンドゥ教か)
で夜明けから鐘を鳴らして、お供え物をして少し騒がしかった。その寺院と境のコ
ンクリート製の塀の上にはガラスが埋め込まれている。このことについてはインド
や戦前の日本も同じ様です。大学時代の恩師に以下のようなe-mailをもらいました。
この前のメールに書き忘れたのですが、インドの住宅は塀に釘を打ってよじ登れない
ようにしてあるのが普通です。窓にも金の筋などが入っています(もっともその割に
夜の8時過ぎでも女が一人歩きしていますが)。今の日本では塀に釘を打ってある家
は見られなくなりましたが、戦前の日本ではごく普通に見られた光景で(釘よりも割
れたガラスを植え付けてある方が多かったようでしたが)今のsecomよりずっと多く
の家で見られました。 この頃は、戦前が道徳水準が高かったという議論をする人達が
いますが、この例でも 戦前の方が今より国内の治安が悪かったことが、解ります。
公衆道徳が低かったことは、戦前でもそのことを嘆く意見があったし、汽車に乗ると
駅弁の食べガラなどは、席のそばの通路に捨てるのが、普通でした。
学校でも戦前に
あった高等科(小学校6年の上に2年あって、中学校に行かない生徒
は」そこに行っ
た)の二年は、一年を奴隷のように使ったりいじめたりしていました
(卒業すると上
級生という力がなくなるのか、卒業式の後下級生の喧嘩につよいの
が、待ち伏せして
復讐するので、彼らは一人では帰れなかったそうです)。1部の都
市生活者(と農村
の地主)をのぞいては、日本全体がまずしかったので、徴兵され
て、軍隊で、肉・魚
が食べられれば、それだけで、軍隊は解放区だったようです。
旧日本軍の隊内生活が
いかにひどかったかという証言は多く有りますが、普通の日本
人から見るとひどくな
かったので、戦前の日本人がいかに貧しく社会の道徳水準も低
かったかと言うことを
抜きにして、軍隊だけを問題には出来ないと思います。
日本軍の残虐行為も日本国内
の道徳水準の低さが大きな原因だとおもいます。
少し横道にそれましたが、インドを
みての感想?です。
これはカンボジアに行ったときも感じたのですが、私の両親から聞かされた戦中、戦後
の日本の生活と似ているのではないかと思いました。 周りの建物は煉瓦がむき出しの壁
で、そこの隙間に雀や大きめの鳥が棲んでいました。このホテルがまわり建物と異質な空
間であると感じました。 何年の統計か解りませんが、ネパールと日本の一人あたりのGN
Pの比は、$220:$32230 =1:146.5 です。 現在でも二百数十ドルで、一日$1を
超えない収入の人が半数 以上いる世界の最貧国の一つです。日本がバブルの絶頂期の統計
としても感覚的に大差はないでしょう。 スタンダードルームのダブルでも定価$25なので、
ネパールの一人あたりのGNPの1ヶ月分にあたります。
会計を済ませようとすると、ネパールルピーでないと受け付けてもえない。昨夜ルーピ
ーに換えていないので、米ドルと日本円しか持っていない。しょうがないので、つけにし
てもらった。
荷物をまとめて、フロントに行って、スタンダードルームへ部屋移動。昨日の門番の人が
『Good Morning sur』といって、零と私の荷物を運んでくれた。前の客が出たばかりで、
掃除がまだなのでテラスに出て待っていた。しばらくして部屋に入り、今日の行動予定を
零に話す。
ルピーへの交換、ニューロード入り口のRAのオフィスで帰りの便のリコンファーム、
明日のGreenBusのチケット、アンナプルナの地図等の必要最小限の買い物を歩いてこなす
ことにした。
零はこちらの部屋の方が、室内の色、間取り、窓の外など落ち着いて静かで良いというが、
さすがにデラックスルームの半額なので、室内の設備は落ちる。室内に生花がある、手入
れされた庭、親切なホテルのスタッフ、サービスは同じなので、値段を考えれば満足。
昨日はLG(Gold star)のカラーテレビ(韓国製)たったが、今日は日本では珍しいインド製の白黒テレビ
(Inetrnational Model 35D14FS 14'flat screen B/W TV).鉄人28号のような日本語のアニ
メが放送されていて、英語が字幕スーパーなので零は熱心に見ていた。
ホテルのフロントにチェックアウト時間とチェックイン時間を聞くとany time OK
24hour open ということなので、これは便利と思って感心した。
外出しようとすると、親切な門番がタメル地区に行く近道のを案内するといってくれたの
でついていった。タメルの地図はある程度覚えていたので何とかなるだろうと思っていたの
が間違いで、この近道をしたため帰って来れなくなった。タメル地区に入って適当に土産物
屋を見ながら、街の風景を楽しみながらニューロード入り口に向かった。タメル地区では
店の呼び込み、タクシー、テンプー、リクシャーに声をかけられたが全て無視した。祭りの
最中だけあって混んでおり、ぶつかりながら歩くこともしばしばあった。途中共産党系の
ポスターがべたべた張ってある通りや、人気のないやばそうな所も通り、方向はニューロー
ドの方に向かっているはずだったが、実際はランダムウォークに近かった。暑さのため零が
くたびれたというので、日陰になっている店の軒で待たせて、ルートハンティングにでかけ
た。大体向こうから話しかけてくる人間にろくなのがいないので、こちらから良さそうな人
を選んで話しかけないといけない。欧米系の白人も額に赤い○をつけられていたので、悪意
のなさそうな赤○をつけているヒンドゥ教系の爺さんに聞いたら英語が分からずダメでした。
しばらく歩いていると、ノーブルで理知的顔をした高校生のグループに合ったので、ニュー
ロードの入り口はどこか聞いたところ、親切にも連れていってくれると言ったが、息子を向
こうに待たせているので、連れていかなければいけないといって、道を聞いただけでお礼を
言って別れた。身なりも綺麗だし、英語の訛もないし、きっと上位のカーストの女子高生と
思われる。自分の現在地がニューロードとの交差点とわかった。すぐ近くにはダルバート広
場、クリマの館があるはずなので、見に行こうと思ったが、零がかなりまいっているような
のでRAのオフィスに行って休んだ。RAのオフィスは、リコンファームや予約の客で窓口に列
を作っていた。日本人は我々しかいない。ほとんどの日本人は旅行会社かホテルにリコン
ファームを頼んでいると思われる。
ラナパーク、ラーニポカリ(中に寺院のある池)国会議事堂を通り、グリーンバス乗り場
を通りタメル地区に帰ってきた。
しかしそれから先のMoon lightに行く入り口が解らず、迷
った。のどか渇き疲れたので、Buddha HT近くのBeyond Breadで、papaya(35Rs
* 2) を飲
み、蠅のついていない、要するに甘くないパンhotcress(10Rs)、croissant(10Rs*2)、white
bead(7Rs*2)とMineral Water 2本(18Rs*2),を買った。
Moonlight HTに行く道を聞くと紙に地図を書き懇切丁寧に教えてくれた。タメル地区の出
口の近くまで来ても、通行できないだろうと思われる細い道なのでよく人に聞かなければダメ
だなと思った。ホテルに帰りパンを食べ昼食にした。昼寝をしたり本を読んだりしばらくごろ
ごろした。
Moonlight H.Tの裏からでたところの道で撮った祭りの写真
予定していた明日3/25(日)のGreenBusのチケットがとれないので、cosmic airのチケットを
取ってもらうことにした。ポカラでのホテルやトレッキングの手配も薦められたが断った。
夕食はLasKusで、セットディナーを食べに行った。強めの酒、前菜:(肉と葱みたいな野菜
の炒め物、トマト、レタス、キウリ、薄焼きみたいなもの、豆の炒め物)メイン:ダルバート
(ダル(豆のスープ)、2カリーフラワー・ジャガイモカレー、3肉のカレー、4骨付き鶏肉の
カレー、5グリーンマスタード、6ピクルスのトマト炒め、7豆の煮物)、フルーツヨーグルト、
揚げパンとかりんとうを一緒にした味のお菓子、ミルクティーを1時間弱かかって食べた。
これで350Rsは安い。ウエイターが料理はどうだったか聞いてきたので、味は良いが、子供に
とっては辛すぎて食べれない物もあったといったら、この料理はネパール人にとって、全然辛く
ない料理だ。ネパール人の食べる料理を貴方が食べたら、非常に非常に辛く感じるだろうと言っ
ていた。途中土産物店を見ながらホテルに帰った。零は疲れきってシャワーを浴びずに寝た。
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